特別な文化に属しているかどうかを議論する前に、 文化とは何かを理解する必要があります。ウェブスター辞書によれば、文化は、ラテン語 cultura またはフランス語colere から来ています。「耕す」とか「特別の要素、文化の価値、人々の集まり」という意味があります。文化とは私達が信じていることを実践することです。
キリストのからだの一部だとしている人々、特に神様のみことばを実践し、信じている人々を、もしこの定義に適用するならば、キリスト教文化もあるに違いありません。神様は、35ヵ国以上の国々へ、そして50年以上の宣教旅行へ、私を導いてくださいました。たとえどこへ行こうとも、聖書を信じているクリスチャンは、同じキリスト教の基本に立っていることがわかります。
この真理はなぜでしょう。なぜなら、聖書の中に、すべてのクリスチャンが従うべき生活の本質があることを教えています。
エペソ 4:22で、「滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」ことを学びます。
そしてピリピ1:27で、「キリストの福音にふさわしく生活しなさい」と教えています。
ある聖書学者は、聖書で「対話」と訳されている「anastrofhn」ということばを、具体的に示している「生活の方法」あるいは、「文化」と定義づけています。なぜかと言えば、神様を愛している人々、神様のことばを信じているクリスチャンは、「キリスト教文化」と呼べるような生活の方法を実践しているからです。
神様は不変なお方です。神様の義の本質はいつも同じです。そしてなくなるものでもありません。私達に与えられた神様のみことばにある「生活」の方法(文化)は、音楽も含まれていますが、生活のどんな場にあっても、決して変わることはありません。
このことは、現代クリスチャン音楽にどのように適用されるでしょうか。現代クリスチャン音楽にかかわる多くの文化を外側から見ている人は、多くの現代クリスチャン音楽は、「キリストの福音」を信じている人々が、聖書が願っている生活様式、姿勢、音楽の基準から外れて、はるかに及ばないことを認めざるを得ないとしています。
たとえば、「Christianity Today 」の中で、マイケル・ハミルトンは、「人が、どんなタイプの音楽を選ぶかによって、その人の個性、価値観,最終的には、どんな人かと言うことがわかります。」と書いています。
「ニューヨークタイムス」の評論部の長であるエドワード・ロステーインは、このように書いています。「音楽の好みが、考え方も左右します。好みによって、音楽仲間ができてきます。音楽や目的を分かち合うことができるグループです。好みを分かち合うことで、音楽での対話がスムーズにできます。」
二人の著者は、現代クリスチャン音楽を認めているわけではないと思いますが、現代クリスチャン音楽のあり方をはっきり述べています。
ワールド 雑誌が言ってることは、注目に値します。
「クリスチャンでない会社が、1990年代にクリスチャンレコード会社の90%以上を買収しました。」
もしクリスチャンの会社が一般の会社に買い取られたのなら、そのクリスチャン会社にも世的打算があったのではないでしょうか。
政治的な面から、キリスト教問題について述べているカル・トーマスは、洞察力のある著書「Blind by Might」の中で、「キリスト教と世の中が交わっていくのなら、キリスト教色は失われる。」
さらに、「私達は試みます...
この世のやり方でもって、この世でない王国へ案内する」と述べています。...であれば、探し求めるゴールははるか彼方のものです。
現代音楽の提唱者は、「世界に福音メッセージを宣べ伝えるためにポップ音楽を使うんだ。」と主張します。ニューヨーク州立大学の情報専門家であるニール・ポストマンが書いた本「Amusing Ourselves to Death」の中で、「思想(キリスト教)を効果的に表現するために用いた方法(現代音楽)の方が、先行してしまうものです。」彼は、さらにこの考えを「その真理をそのまま伝えるのでなく、別の方法で、その質や価値を表現できると思うことは無知すぎます。」と述べています。理解が間違っていることを明らかにしています。
現代クリスチャン音楽にこのことを適用してみると、今日のポップやロック・ミュージックに神の言葉を引用するなら、神様のゴスペルであるはずが「別のゴスペル」に変わって、聖書の言葉の本質さえ変えてしまうことになりかねません。
ガラテヤ人への手紙1:7が言うように、それらは「キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。」おそらく、ロバート・ショウは、この言葉が聖書から来たことを知らずに言ったと思います。「私は、今日、教会で歌われている賛美を、教会が理解しているかどうかわかりません。人々は、賛美を理解していません。...それは恐ろしいことです。」
現代クリスチャン音楽の集いで、「神様のことをラップリズム」のように考えており、「子供たちは、踊りがないなら、祈りの場にでもと軽い選択をする。」と、ニュースウィークの雑誌は述べています。
「キリスト教の本質からかけ離れてしまったのではないか。」と語っています。この世俗的なマガジンでさえ、現代クリスチャン音楽およびキリスト教文化は共存できないことを明らかにしています。
何人かの宣教師が、「伝道しているほかの国の人たちに、アメリカ文化を勧めたくない。」と話してるのを聞きます。私も同じ思いです。アメリカ文化が、そんなに価値あるとも思えません。事実、多くの国々でも、同じような問題を持っています。アメリカが、映画や音楽を通して、くだらない文化をほかの国々に提供しているからです。
しかし、クリスチャン文化があります。私たちは聖書の本質のみを宣べ伝え、ほかの国々を聖書の基準に導く役割があります。
スティーブ・キャンプによれば、現代クリスチャン音楽が広く行き渡ると、「真剣みがなく、キリスト不在、力もない、神様が軽いお友達のような関係」の傾向になっていき、弱いにせクリスチャンへとつながっていきます。
昔ながらの生粋の伝道者バンス・ハブナー氏は、「現代クリスチャン音楽が世界の光ならば、なぜ、すべてが暗やみの中にあるのか。」と言ってます。
何人かの歌手による、現代クリスチャン音楽のレコード会社は、百万単位の音楽を売り上げました。ニュースウィーク雑誌社は、クリスチャン音楽ビジネスは、30億万の事業ができると言い切ります。
バンス・ハブナー氏は、さらに付け加えて言います。「現代クリスチャン音楽が世の塩ならば、なぜ塩気が働かず、すべてが汚染されてしまうのか。」
また、「現代クリスチャン音楽が一般化することが問題ではなく、生き方の問題でもなく、聖書の教えであるキリストの真髄をとりあげない現代クリスチャン音楽の在り方にある。」と言っています。
「内容に深みがなく、単調無意味かもしれないけれども、それがすべてではなく、悪いわけでもないのに、なぜ現代クリスチャン音楽を全面的に非難するのか。」と言うのを聞きます。
教会あるいはキリスト教の組織に、真実と不誠実が混在するときに、最も悪い傾向が表れます。
キリスト教主義の学校と名乗りながら進化論を教える学校より、キリスト教主義でない学校へ行くほうがましだと思います。
共に祈りながら、フロイドの心理学を用いる心理学者を選ぶより、クリスチャンでない心理学者を選ぶほうがよいでしょう。
曲がりなりにも聖書の内容を説教し、伝道の一つとして世的な方法を用いるなら、聖書を教えない教会へ行くよりはよいでしょう。
真実と不真実を混在している「キリスト教の世界」は、矛盾と妥協があり、最悪となっています。現代クリスチャン音楽もそのような風潮になることは簡単です。
タイムマガジン特別号記事、「音楽は世界をゆく」の中で、聖書を中心に生活しているクリスチャンは、現代クリスチャン音楽、特に現代的と言われているクリスチャンポップスを取り入れるべきと言うのは、大きな問題と指摘しています。
このタイムマガジンによれば、「音楽家は古い伝統を揺れ動かしています….世界は決して同じになるものではありません。... 「音楽は世界に通じる言葉です。」このことばは、私たちの存在する世界の格言となっています。」
いわば、ポップミュージックは、世界にひとつの教会を立てあげようとするサタンが用いる巧妙な手段の一つと言えます。サタンは反キリスト世界を立て上げようと、現代クリスチャン音楽を用いたのでしょうか。考えられないような不思議な縁で、信者および未信者を融合させてしまうことは確かです。
ジョン マクジナが書いた「Measuring the Music]の中で、「現代クリスチャン音楽に戦いを試みる人はだれでも、ゴリアテだけが相手ではなく、ゴリアテよりももっと強くて、手ごわいものに立ち向かうことになるでしょう。」とはっきりと述べています。
現代クリスチャン音楽は時代の流れですか。そうだといえます。しかし間違った傾向に向かっています。それは、ピリピ人への手紙1:27で述べられているキリストの福音にふさわしいものではないと断言できます。